1、喫茶店くらい楽にできるべさ
「先生、先生ってやめたらどうすんのですか」
進路面談中、長田まりあが奇妙な敬語で聞く。長田まりあは一年生の時、私の世界史の授業で「イエス=キリストの母の名前は」と聞かれて首をかしげ、周りの生徒に「お前だお前」と囁かれ「あ、そっか」と頷き「ナガータ」と答えた。破壊力抜群で勉強は恐ろしくできないが、高校から始めた弓道で全国大会に出場した逸材である。他の部員に「まりあは、なぜあれほど上達したのか」と聞くと「先生、あいつは頭の中に何もないからすぐ無心になれるんです」と言う。なるほどと感心した。
それはともかく、まりあの無邪気な問に「そうだな。人に使われるのは疲れるし、食べ物を作るのが好きだから喫茶店でもやるか」と軽い気持ちで言った。まりあは目を見開き「先生に喫茶店ができるんですか」と言う。言い掛かり上「喫茶店くらい楽にできるべさ」と言ってしまった。「私、絶対先生の喫茶店に行きます。でも喫茶店よりカフェの方がカッコいいです」と目を輝かせる。喫茶店とカフェは同じだと思いつつ面談終了。
彼女はトップバッターで、その後、来る生徒生徒に「先生、カフェやるんですか」と聞かれる。言いふらしやがったなと思いつつ「そうだよ。そんなの朝飯前だし」と応える。何回も口にしているうちに、退職後は喫茶店でもいいかと考え始めた。試験監督をやりながらメニューを考えたり、店構えはどうしようか想像したりする。本当にカフェでいいのか、そもそもやれるのかと突き詰めて考える間も無く3月1日が来た。
3月1日、卒業式。式を終えると教室で最後のホームルームになる。担任としてやり遂げた充実感と生徒の未来への不安、もう少し何かしてやれなかったかとの後悔や、やれるだけやったとの満足感と諦め。複雑な感情が入り雑じる。HRが終わると二度とこの子たちに教えることはない。一人一人に励ましの言葉をかけ、教室を後に廊下に出ようとした。すると「先生、待ってください」と背後で声がする。振り向くと机に乗せた大きなケーキが現れた。生徒全員が起立して「先生、誕生日おめでとうございます」と祝福してくれる。実はこの日は私の誕生日でもあった。さらに長田と下町が私の前に来て箱を差し出し「先生、いつかカフェができたらこの時計を使ってください。必ず行きます」と私の目を見て言う。何の疑いもない綺麗な瞳だ。「あ、はい。そうだな、みんな来てくれたら嬉しいな」と応える。
こうして私の他の選択肢はなくなった。生徒に「ウソつきと泥棒にはなるな。偉くならずとも正直に生きよ」と言った手前、撤回などできるはずもない。こうして退職一年前、何気ない一言に始まり、私の第二の人生が決まってしまった。
「心優しい美人」とかけて何と解く。「退職教師のカフェ」と解く。そのココロは?「とんと出会ったことがありません。
その頃から年金支給年齢が段階的に上がり、支給まで雇用が保証された。退職教師の多くが再任用を選び、全国にやる気がない爺婆教師が増えた。それは兎も角、私は教員以外の人生を始めたかった。かといって「これがやりたい」という具体案もなく、生徒と約束したカフェは使命となり実現すべき目標となった。
2、カフェってどうやって開くのさ、知らんけど
35年の教師人生、13年の単身赴任を終えて網走の家族の元に戻った。カフェの具体的な構想はないが店舗は中古物件を改装することに決め、資金は退職金を充てることにした。そんなことを折を見て家族に提案すると、妻も子供も見事に大反対。しかしオール野党を蹴散らし、私は店舗が出来次第開店すると高らかに宣言した。これだけ強気になれたのも、卒業した生徒の顔や言葉が強迫観念となって脳裏にあったからだ。
網走に戻った翌日から毎日4時間以上、物件を探し回った。おかげで2キロの減量に成功。一月半で家の半径3キロを舐めるように見た。空き家と空き地が矢鱈と目につく。単身赴任の13年間で網走市の人口は4000人減少。約1300世帯が空き家か更地になった計算になる。全国の地方も似た状況なのだろう。人口減少と空き家対策は日本の一大問題だが、私のような退職老人が空き家を再利用すれば問題解決の一助になるのでないかと呑気に考える。
空き家は多々あるが意に沿う物件はない。良さげな家は場所が分かりにくかったり駐車スペースが狭い。道路沿いの手頃な物件は価格が高く手が届かない。悲観的になりかけた頃、次男の通院送迎で未探索の向陽を歩いた。気持ち良い五月晴れ。売家の赤紙が張られた一軒家を見つける。道路に面した駐車場が広く、隣家に挟まれた小道から裏に行ける。どれどれと裏に抜けた瞬間、目に入る光景に衝撃を受けた。映画「ひまわり」でリュドミラ=サベーリワがロシア帽を脱いだ瞬間、「ラストサムライ」で小雪が現れたその時の驚き。目の前に眼下に広がる真っ青なオホーツクと遥か向こうに聳える冠雪の知床連山。見事な自然が圧倒的に存在した。予想だにしない光景に足が震える。
「やっと廻り合えた」。どれくらい見ていたか覚えてないが、すぐに妻を連れて来て「ここでカフェを開く」と宣言した。妻も景観に打たれたのかすんなりと了承。ショックのどさくさに物事を進めるのは世の習い。こうして開店への第一歩が踏み出せた。
(次回へ続く)
北海道網走市 喫茶店 七つの海マスター

